津和野街道まめ知識

津和野街道まめ知識

・しってる!? 津和野街道まめ知識

     1. 津和野街道の石畳は、なぜ、必要でしょうか?
 

石畳状況

    *石畳は、街道上の土砂が流れ込むのを防ぐために敷かれました。
 
  2. 「厳島合戦」とは、どんな戦いですか?
             廿日市住民としては、是非、知っていただきたいことですね、
             さあ、答えてみましょう!
 
 
 
     *室町幕府・足利将軍はしだいに力を失い、各地の守護大名が力をつけて勢力争い激し 
      くなってきました。
       中国地方でも、周防の大内氏と山陰の尼子氏が抗争を繰り返しました。大内氏は、  
      次第に安芸の国にも勢力を伸ばし、厳島神社も大内氏の庇護を受けることになり
      ます。
      安芸国の守護は、一時を除き、武田氏の手中にありましたが、武田氏の支配力は弱
      く結局、西の大内、北の尼子、南の河野といった、周辺の有力大名の顔色をうかが
      うほかなかった。天文20(1551)年、大内しは家老の陶晴賢の謀反によって敗れ、
      領主大内義隆は、長門の大寧寺で自刃した。また争いが始まり、高田郡吉田におっ
      た毛利氏は、武力制圧や有力豪族との婚姻関係を成立させることにより、着実に勢
      力を伸ばし南下した。大内氏と盟友関係にあった毛利元就が陶晴腎に兵を向け、宮
      島を舞台に、「厳島合戦」が繰り広げられた。
      もっと詳細に知りたい人は、自分自身で勉強することをお勧めします。

3. 「応龍寺 洞雲寺(とううんじ)」は、どんなお寺ですか?
    廿日市住民として、是非、知っていただきたいですね。
     さあ、答えてみましょう!
     *洞雲寺は曹洞宗・禅宗のお寺です、城主藤原教親は、佐伯郡、大竹市の全体、広島市
      の西半分の領域を治めていた。藤原教親とその子宗親のとき、我が家の繁栄を願っ
      て洞雲寺を建立した、天文10(1541)年、櫻尾城は大内氏に攻められ城は炎上、城主
      藤原興藤は自刃した、この墓地には、城主藤原興藤の墓(宝篋印塔), 陶晴腎の首塚、
      穂田元清(毛利元就の四男,最後の桜尾城主)夫婦の墓、桂元澄(毛利家の重臣)の墓があ
      ります。
      もっと詳細に知りたい人は、自分自身で勉強することをお勧めします。